◇ ペットロス体験を振り返って(2007.6.15) ◇




今現在、私自身は、「ペットロス」と呼ばれる状態からは、ほぼ完全に脱しています。
なので、まずは安心してください。今は信じられなくても・・・必ず、その日は来ます!



◇ペットロス状態から脱するということ

ペットロス状態から脱することは、「愛する子を忘れる(愛情が薄らぐ)」ことなどでは決してありません。
私自身、今でも全く変わらず、ももちゃんを愛しています。 ももちゃんの素晴らしさに対する尊敬の気持ちも、全然薄れていません。
そして実は、ももちゃんのために何も出来なかった自分を、情けなく悔しく思う気持ちも消えていません・・。

でも今は、毎日の生活の中で辛さを感じることは、ほとんどありません。
不思議ですね。

「時が解決してくれる」とよく言いますが、苦しみの真っ只中にいた時期は、「救いがたい大きな過ちの事実が決して消えない以上、時間なんかでどうやって解決されるのよっ!」と思ってました。
でも、今振り返れば・・・一番大きかったのは、やっぱり時の流れの効果でした。
いったいどの部分を解決してくれたのかと考えると・・

まずは、「ももちゃんが居ない」という生活に慣れます。悲しいことかもですが、これは自然なこと。
もうひとつ、
「ももちゃんを失った時の状況、その時感じた激しい絶望感が、日常的に生々しく再現される」ことが無くなりました。

自責の念(自分がもっと注意していれば・・とか、もっと何か出来たんじゃないかという後悔)については、理性の部分では、 「結果的には不幸な結果になってしまったものの、そのときには最善だと考えて選択した。」、仮に過失の要素があったにしても、「決して悪意があって招いたものではない。」ということは理解してるんですよね。
でもそれに、その瞬間の無念さ・絶望感、愛する子の苦しむ様子などの生々しい記憶が重なると、激しい感情が噴出し、どうにもこうにも理性では制御出来なくなるものです。

でも、その生々しい実感を伴った記憶が薄れた今、やっと、「仕方なかったんだ。」と、当時の自分を少し許せるようになりました。
もちろん、思い出せば悔しいし、無念さが完全に消えるわけではありません。でも、「その時の生の実感」が伴わない思いは、当時のものとは、苦しみの程度が全く違います。

自分の経験からですが・・・
激しい苦しみを和らげるための方法は、人それぞれ違うと思いますが、
最悪の時の「生々しい実感」が記憶から消えていくこと、
これが、ペットロスから脱するためには絶対に必要なんだと。
そしてそのためには、「時間」がどうしても必要なんだと、私なりに今は理解しています。



◇これまでの経過

当時の苦しみぶりは、「ももじ天使」のページでお察しいただけるかと思いますが・・
長かったですね・・正直。
トンネルをいつ抜け出せるかわからない苦しみは、想像を絶するものでした。(安心させられなくてすみません)
「忍耐」というものが大の苦手で、何か問題があればいつも能動的に状況を変えてきた私が、「ひたすら耐え忍ぶ」という状態を初めて経験しました。
どうやっても状況を変えようが無い、どうしようもない・・・時間を戻してやり直すことは出来ず、ももちゃんが帰って来ることも絶対に無いからです。
あまりにも大きすぎる存在の喪失だけに、それ以外の瑣末な状況の変化は、ほとんど意味がありません。

今でも、あの長い苦しみを味わうくらいなら、ももちゃんと一緒に逝けたらどんなに良かったかと思うほど。
・・と、そんなこと考えちゃいけませんけどね。(^^;

でも、「あの苦しみの経験は無駄では無かった。」と、それだけは本当に思います。


■ちょっと復活を感じた時。

私の場合、少し抜け出せたかな・・と思った変化が、「夜道が怖くなった」ということでした。
元々暗い道を一人で歩くことがすごく怖くて(幽霊じゃ無く人が)、駅から10分ほどの自宅なのに、わざわざ手前の駅で降りてタクシーを使うほどだったのですが、実はももちゃんとの別れがあってからは、全く怖くなくなってました。
決していいことではありませんが・・・何かあっても構わないというか・・ もう、本当にどうでも良かったんですよね。 死に対する恐怖は全く感じませんでした。
それが1年を過ぎたころかな?久しぶりに夜帰宅する機会があって、夜道を歩いているときに、「怖い」と感じたんです。久しぶりの感情で、ちょっとびっくり。それで、「あれ?もしかして少し前進出来た?」と。
殺されるのが怖いという、普通の感情が復活した瞬間でした。(笑)


■えびすを迎えて。

1年半程経った頃にえびすを迎えましたが、始めは正直、辛さが増しました。
「ももちゃんを愛していながら他の子も同じように愛せるものなのか?」という不安、 「えびすを愛することで、ももちゃんを忘れてしまうのではないか?」という恐怖や申し訳無さ。
その上、 とっても穏やかで可愛いかったももちゃんと、当時はお世辞にも穏やかで可愛いとは言えなかったえびすを、どうしても比べてしまう自分・・・(笑)
えびすが居るのに、返って、ももちゃんのことばかり考えてしまう状態の時期がしばらく続きました。
まだペットロスから脱したとは言えない状態だったので、まだ早かったのかと後悔も。

でも、今は杞憂だったということがわかってます。
ももちゃんも愛してるし、えびすも愛してる。どちらも愛することは可能です。もっとも、多頭飼いしてる人にとっては当然のことですよね。
「ももちゃんを忘れる」ということも、もちろんありませんでした。返って、えびすを見ていてももちゃんを思い出すことも多々あります。
元々、「他の子を可愛がったらももちゃんに申し訳ない」という考えは一切無かったですし。(ももじ天使が怒るはずがないからです)
そう言えば、ももちゃんのムートンのような毛の手触りの記憶が、えびすの手触りによって、だんだん消えてしまうのではないかという恐怖感もありましたね・・。でも今は、それはそれで、人間の記憶の限界なんだろうと・・諦めもつきました。もっとも、まだ全然忘れてないですけど。(^^)

結果的に、一番の癒しになったのは、やっぱりえびすの存在です。
初めこそ少し後退したように感じましたが、それまで一進一退だった状態に、一気に加速がついた感じです。
理由はよくわからないのですが・・・手間がかかって思い出す時間が無くなったというよりは、えびすの可愛さにただただ癒された・・ということのような気がします。
実際、一番手間がかかっていた時期は、辛いことを思い出すことも多かったので。
もちろん、えびすとの出会いは、私にとって丁度良い時期だったというのもあったのかもしれませんね。



◇天国について

時間が必要とは言っても、時の流れに任せて、ただただ耐え忍んで過ごしていることも出来ません。
私なりに、一番努力したことと言えば・・「天国を信じる」ということでした。
これについては、異論反論あるかと思いますが、まあ人それぞれということでお許しを(^^;

ももちゃんが亡くなるまで・・手術をしてから約10日間、ももちゃんがどんどん衰弱していった中で、実は私は、「祈る」ことさえ出来ませんでした。手の施しようが無く、どうしようも無かった状態でも・・です。
度を越した無神論者で生きてきて、全くその手の話は信じられないと言うか・・・軽い嫌悪感さえいただいていた私は、あまりにも危機的な状況の中だっただけに、余計に、「無いもの」に祈るという行為が非常に滑稽に感じられて・・どうしても出来なかったんです。そのくらい、根深い不信心だったんですね。
「祈る」ことすら出来ない私は、ももちゃんが衰弱していく様子を見ながら、ただただ、呆然としていただけでした。
あまりに不甲斐ないママでした。何もしないよりは、祈っていたほうがどんなにマシだったかと・・とても後悔しました。

「天国を信じる」というと、どうしても、「自分がラクになりたいからじゃないの?」という疑問が付き物です。以前の私も、当然そのように思ってましたし。
でも、自分の経験に関して言えば・・・確かに二次的にラクになるのは事実ですが、ちょっとそれは違うんですよね・・。
別にラクにならなくてもいい。ももちゃんを苦しめた私は、もっと苦しんでも良かったんです。たとえば、ももちゃんに呪い殺されるならば、全く甘んじて受けたでしょう。
ももちゃんの許しを請う・・という気もありませんでした。恨まれても当然。嫌われても当然。
ただただ・・・
「ももちゃんがもう存在しない。あの瞬間にももちゃんが終わった。」という事実が、耐えられなかったのです。どうしても幸せで居て欲しかった。裏に理由も何もない、「そうじゃなきゃ嫌だ!」という、叫びたくなるような気持ちでした。
「思い出の中に生きる」というような、気休めにもならない言い方がありますが、私の頭の中にいるももちゃんなんかじゃ意味がありません。
ももちゃんが、今、幸せであることだけに意味があるのです。

元々、天国があるのか無いのか・・っていう問題は、どちらにしても証明は出来ません。
でもその中で、当然のように「ある」と言っている人たちも、目を向けてみると結構大勢居るんですよね。それら全てが錯覚やウソ、ただの依存心というのも・・よくよく考えたら、そのほうが無理があるような気もしたり。

「無い」のならば、もう全てどうでもいい気分でした。でももし、本当に「ある」のだったら??
天国のももちゃんは、全て投げやりになったママを見て、どう思うだろう?
本当は天国に存在している自分を、もう無くなったものとママが考えているのをどう思うだろう?
今まで自分はどうしても信じられなかったけれど・・・もし本当に天国があるのならば・・・
ももちゃんのために、 「心から祈りたい」と思ったのです。
さほど信じてもいないのに気休め程度で祈れるほど、小さい存在ではないですから。

もっとも、霊感も何もない人間が出来ることと言えば・・・
その手の本をひたすら読むことくらいでした。(笑)
沢山読んでいく中には、「なんだこりゃ?」というような笑うしかない本ももちろんありましたが・・でも中には、ウソとも思えないようなものも多くありました。
今まで避けていた情報を、初めて積極的に取り入れる努力?をしていく中で、徐々に、「うーん・・本当はあるのかも。」という思いに変わっていき・・・
結果的に今では、自分で感じられないものを完全に信じていると言うのは厳しいところもありますが、それでもかなり大幅に信じてます。(笑)
少なくとも、「信じないよりは信じたほうが断然いい。」と、心から思います。

苦しみの最中には、祈りつつも「本当にあるのかよっ!」みたいな逆切れ状態になることもしばしばありましたが^^;
これも、時の流れと共に苦しみが抜けてくるにつれて、不思議と心から祈れるようになりましたね。
ももちゃんは天国に居て、ママががんばって生き抜いた後、再会することが出来ると信じています。
そのときには、きっと、えびすも一緒に迎えてくれるでしょう。(^^)


もちろん天国を信じるか否かは、それぞれが選択することですので、「絶対信じるべき」とか言う気は全くありません。
ただ、天国の存在一切無しで、どうやって「最愛の存在」との死別を乗り越えられるのか・・
(弱い人間と言われるかもですが、私にとっては、理屈なんかじゃどうしても対処出来ない出来事でした。)
もし、私がももちゃんを愛したのと同じように「愛した子」との別れの際、「その子の存在は完全に無くなった」という確信のもと、「心理学的な解釈」や「思い出の中に生きているという慰め」だけで、乗り越えられる方がいるのならば・・・
返って、その方の心の強さを、とても尊敬します。


Momojiは、信心というものは、あくまでも人知を超えた部分を理解するために必要なのであり、個々の心のうちにあればいいものだと思っています。
現世利益の追求のための信仰、 人間が興した宗派・団体というものには全く興味がありませんので、どうぞお間違え無くです。m(_ _)m





かなりの長文、最後までお読みくださった方がいらっしゃいましたら、
どうもありがとうございました。 本当にお疲れ様でした。(笑)

「ももじ天使」のページと重複する部分もあったかもですが、
今感じることをそのまま書かせていただきましたので、どうぞお許しください。m(_ _)m




時の流れとえびすの癒しによって、あの瞬間の生々しい絶望感の記憶は、急速に薄らいでいきました。

でも、ももちゃんとの楽しい思い出は、全く消えません。

辛い記憶と共に思い出さなくなったぶん、ももちゃんとの日々を懐かしく、
幸せに振り返ることが出来るようになりました。

そして今、再会出来る未来を楽しみにしつつ、天国に居るももちゃんを、心から想うことが出来ます。



2007年6月15日  Momoji






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